尾形亀之助著『障子のある家』(昭和23年再版)の復刻本跋文(案)
尾形亀之助の詩集『障子のある家』を復刻した。ただ、それだけである。
と、書きたがったが、そうとは私には書ききれなかった。それは、方々に誤植があり、版面の配置の不揃い、漢字の字体の違いなど、復刻の元になった昭和二十三年の再版本との違いが多々あるためである。
誤植は、正誤表を見返しに貼ったのでそれを見ていただきたい。版面の配置の不揃いはどうしようもない。せめて読みやすく行頭が揃っていれば良いが、幾つかの場所で目立ってズレている。漢字の字体の違いはこの跋文の最後に記載した字体の相違表を参照していただきたい。そのほかはほぼ再版本と変わりはない。もちろん活字の書体は同じ明朝体でも違う鋳造所のものであるから雰囲気は違う。
最初にこの復刻詩集の頼りないことを書いたのは、期待を持ってもらわないためである。しかし、これを書いている現時点で尾形亀之助が見届けた姿形に近いものとして『障子のある家』を自分の手に取って親しくできるのは、稀に世に出る草野心平の友情が残した再版本以外、この復刻詩集しかないと自負する。
『障子のある家』の大小の活字の使い方や文字組みにおける工夫、さらには恥ずかしそうに奥付の表題の脇に添えられた文などを尾形亀之助の意を汲んで味わうことは、初版本と同じように装幀したこの姿でしかできないことである。本には顔形が最初からあるものであり、同じ中身でも顔が変われば別な物である。どちらが良いかということではなく、明らかに違うということである。
この復刻詩集で製作者が一番にこだわったのは、手に持った時の感触である。なぜそれに拘ったかといえば辻まことがこの詩集を戦場で手放さずに持ち歩き、揺れ動く生身の人間としての自分の感情を忘れないようにしたからである。それは納められた詩文だけでなく、物としての存在も彼の心を包んでいたからである。そのことがこの復刻本に現れていると思いたい。
尾形亀之助がこの詩集について書いたものは、この詩集の自序にしかない。とりわけ物として込めた思いは表紙の緑色のつや紙にある。ならばこの復刻詩集の表紙につやはない。すでに輝きを失っている。緑色のつや紙がどんなものであったかについては、想像をしていただくしかない。亀之助が未来を語ったように過去を語るしかない。私がやってしまったことは、草野心平がないかと呟いてその時に居合わせた辻まことが偶然に持っていて彼に渡した初版本の表紙のふるぼけたうぐいす色を、鮮やかなうぐいす色に化粧したことぐらいである。
せめては、この復刻本をして少しでもいじけている亀之助の気持ちを友人の一人となって察してくれたらと思う。