盛岡から発行されていた詩誌『火山弾』の同人であった朝倉宏哉さんが詩を発表している詩誌です。誌面の多くは小林稔氏の個人誌ですから小林氏の詩と評論が占めています。わたしがこの詩誌を手に取ることができるのはときどき朝倉氏から送られてくるからです。
朝倉氏の詩には生命感を強く感じます。そして最近は、年齢を重ね、年老いて、死者を憶う言葉が頻繁に現れます。友人だったり、兄弟だったり、妻であったり、その方々の思い出と共に、いま目の前で起きている身辺の出来事を重ね合わせながら、生きることの戸惑いのような言葉を綴っています。
今号は、「影」と題した4行8連の詩です。影にまつわるあまりよくない、薄気味悪い思い出と共に、気がつけばいつも自分にまとわりついてくる存在としての影をどうにか受け入れようとする頭の回路を、淡々と綴っています。詩を読み終えてわたしが感じたのは、やはりどこか受け入れ難い影という存在に対するどうしようもない違和感でした。この詩を成り立たせているのは、この違和感なのだと思います。
影踏み遊びが嫌いだった
ひとの影を踏むと千切れて
蜥蜴のしっぽのように
のたうちまわっているようで
自分の影を踏まれると
踏まれたところが
頭であれ 手足であれ
全身に痛みがはしった
(略)
影は究極のストーカーだ
どこまでもついてくる
夜がきて闇に包まれるとき
ようやく解放してくれる
眠りにつくと
隠れていた影が動き出し
幽明界を融通無碍に出入りして
シュールな劇を演じたりしている
日の出とともに影も目覚める
ひとは きょうも
分身のような 忍者のような
影といっしょに生きるのである
詩「影」最初の2連と最後の3連
最後の行「影といっしょに生きるのである」は、わたしにはため息に聞こえます。まとわりつかないでほしいと思いながら、ずっと一緒に生きなければならない諦めのようなため息です。失礼を承知で書けば、微笑ましいとさえ思ってしまいます。
理屈を超えたところで、無邪気であったり、天邪鬼であったり、不自由であったり、制御できなかったりする性(さが)が滲み出ている作品だと思います。
