なつやくるみ 詩集 『栞』

 

 

 

 

 盛岡と遠野を行ったり来たしながら岩手で暮らしている なつやくるみ さんの詩集です。萌葱色の手触りの良い簡素でとてもさわやかな詩集です。なつやさんが岩手で暮らし始めてからの出来事が綴られています。出会った人、出会った山、出会った鳥、出会ったものたち、そして出会った自分。それは、さりげない日常の中のさりげない出来事や風景で言葉は始まります。

 

  わたしは 似ている

 

はじめてあった人に

「よく似ている」と言われる

その方の友人に

その方の学生時代の先生に

「よくある顔だから」と言葉を返す

 

友人とユーカラを聞きにいくと

アイヌの女性にわたしが「そっくりだ」と友人が言った

そうかわたしにはアイヌの血もはいっていたのか

 

テレビで中国雲南省の映像が流れたとき

店屋の前に座るおじいさんは、山形の死んだ祖父だった

「おじいさん、そこで生きていたんだね」

とつぶやいた

               「わたしは 似ている」冒頭の3連

 

 この詩は「・・・似ている」という言葉で始まり、最後に「わたしは だれかに似ている/だれかもわたしに似ている」で終わります。しかし、三連目で「あれ?」と思うのです。そのまま読み進めるのですが、気になります。テレビに映った中国の雲南省のおじいさんが、「山形で死んだ祖父に似ている」と書かれていれば「あれ?」とは思わないのです。それが、似ているのではなく「山形で死んだ祖父だった」と語り、「おじいさん、そこで生きていたんだね」とつぶやきます。さりげなく書いている出来事に突然と自分が入り込んでしまう。この作品だけでなく他の作品にも憑依とも言える現象が現れます。それはいったいどういうことなのでしょうか。 

 

  毛糸を編む 

 

編みかけの毛糸の靴下をとりだした

つま先を残してぱったりやめている

毛糸を触りたくなる温度があるようだ

ある日毛糸に触らなくなり

秋日和のある日もぞもぞと編みだす

編めば手が覚えている

               「毛糸を編む」最初の1連 

 

  毛糸を編むことへの思いを語り始めるこの詩。次の第2連では、生産性のないことをしているような思いを語り、続く第3蓮では、手を動かすこと、体を動かすことの効能を語る。そして第4連と続く。

 

 

毛糸を編む

人の尊厳を踏みにじることあちこちに

歴史に編み込まれた嘘と欺瞞

わたしは何をしていた

署名するだけで声はあげなかった

おだやかな暮らしに被膜のような罪悪感

               「毛糸を編む」第4連

 

 「編む」という言葉から歴史に編み込まれたものへぐっと自分に入り込み、「罪悪感」という言葉で自分を責めている。そして最後の連、

 

 

毛糸を編む

手を動かし耕し働き食べて寝る

それだけのことでいい

午後の陽が沈む

世界は美しいはずなのだ

そう君に伝えたい

               「毛糸を編む」最終の連

 

 自分のいまに満足できない自分を扱いあぐねているのだろうか。世界は美しいはずなのに美しい世界を見ることが、感じることができないと言いたいのだろうか。最後の行に現れる「君」とはいったい誰なのだろうか。救いを求めているのだろうか。そんなことを考えてしまいます。

 なつやさんの詩には日々のことが丁寧に書かれています。それだけでも十分に力を持った、しっかりと地に根を下ろした言葉だと思います。この詩集では多くの岩手で出会った人たちが題材になっています。子のため孫のためにしとねる人、正月に餡子を売った饅頭屋、小さな小屋に住んでいたおじいさん、病室で泣け叫ぶ人、小さな祠の狼、カフェの老夫婦、春に百歳になった義母、・・・。どの詩も、読んでいて心がやんわりとしてきて落ち着きます。だからこそ得体の知れない自分が入り込んだ詩行にでくわすとハッとするのです。

 自分はそのときなにをしていたのだろうか。それがこの詩集を貫いているなつやさんの思いかも知れません。後悔とも違う、諦めとも違う、懺悔でもない。

 

 

   道しるべ

 

わたしは道しるべをなくして道に迷っているのだろうか。たくさんの情

報のなかでわたしの求めているもの。読んでも読んでも忘れるけれど、

こころのなかにはずんずんたまる。

重い生きるのは重い

どうせ無になるのに、ため込んでどうする。ハアハア山道をのぼるわた

しの道しるべ。栞は、わたしが探しだし思いだすのをまっている。親を

捨てわたしは本をかかえ山にのぼる。

うつくしい栞たち

               詩「栞」最後の9行 

 

「自分が入り込む」とは、自分を見失うことかもしれません。見失わないために挟んでおいた栞を、幾度挟んでも無くしてしまう。そして、行き場を失った栞がいくつも溜まり「わたしが探しだし思いだすのを待っている」。そのとき、そのときの自分がそこにいたのに、いま、何事もなかったようにここにいる。そして、苦しんでいる。そういう思いが伝わってきます。

 先日、仙台のオフィス汐で詩人の武田こうじさんとやまうちあつしさんが「そろそろ詩について話そう」というイベントを開催しました。「詩とは何か」を話そうという趣旨だったと思います。そこで語られたことの一つとして、〈詩は言葉で表現できないことを言葉で表現する〉という話があったと思います。わたしがここまで書いてきたことは、言葉で表現されたことを言葉で言い表すことでした。では、この詩集に収められている詩が詩として成立することをお前はどうやって証明するのか、と問われたとすればこの続きにどんなことを書けばいいのでしょうか。

「親を捨てわたしは本をかかえ山にのぼる。うつくしい栞たち」

 なぞのような言葉ですが、栞がうつくしくかがやいています。

 

 

 

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