2026.10.10

宿で眼を覚ます。闇夜に風呂に入る。星が綺麗に光っている。天の川が見えるのではと思っていたが、空への視界が狭いこの露天では見渡すことができないらしい。位置を変えながら空を見、露天で足を伸ばしていたら、茂みから熊が襲ってきやしないかと急に心細くなる。いや、お前はいつ死んでもいんだろうと自分に言い聞かせるも、怖いものはますます怖くなり、それはそうだと、さっと走ってドアを開け大浴場の内風呂に逃げ込む。ロビーで寒さに震えながら、持ってきた玉田尊英『雨の森』を読む。気になる表現がたくさんある詩集。その気になるところは、主にぼんやりとしたわからなさが要因だが、読むたびにそのわからなさが転回して、違う姿で現れる。もう少し、定まったのなら、感想を書けそうな気がする。しかし、意地悪な心がいつまでたっても消えないのには、厄介だと思う。他人の詩の感想を書く際には、この意地悪な心根が消えて欲しいといつも思う。批評を行う際、作者と作品を区別するとは、互いに干渉を入れないということではなく、作者について日頃や大昔から持っている偏見や先入観や意地汚い嫉妬や腐臭を一旦、脇に置くことだと思っている。区別なんぞできないのだから。一旦、部屋に戻り、明るくなってから、天空の露天に行く。ここは、また違う露天で、貸切で、「空いてます」という看板を見つけたら、入り口のドアを入り、中から鍵をかけ、看板を入浴中というものへ裏返り、技を仕掛けることになっている。見渡しが良い。風呂を上がり、ロビーで書棚の本を読もうと椅子に座る。ひょいとみると寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』の背文字が見える。拾い出し、読み進める。やたらチンポのデカさを争う段が続く。それも延々と。いい加減になり、奥付を見ると、初版本だった。活版ですられた文字は案外小さい。たまに活字が薄ぼんやりとしているところがある。こういうのを見ると安心する。コート紙らしき青い紙に白文字で「詩人の遍歴」(たぶん、こんな感じの題名の文章)という文章があり、俳句、短歌、劇と詩人の表現が変わってゆく変遷が書かれていた。グーテンベルグが苦心して活版印刷を始めたことで、詩は口を離れ、文字で表現されるばかりになり、詩人は猿轡をはめられてしまって言葉を失い、対話することをやめ、モノローグに徹するようになったと書かれている。はは、納得。さもありなん。なにか、素敵なものをいただいた気がした。ただ、気がしただけだけど。帰路、お釜に寄り、家路につく。
夕、爆睡。起きたら脳天に穴があいていた。露天で見た空のようだ。
2026.10.09

また目を開けると眠れなくなる。こういうときは本を読むとすぐに睡魔が襲ってくるのだが、今読んでいる宮城谷昌光の『公孫龍』は面白くて、ますます眠れなくなるやつだった。しくじったと思ったが、後戻りできない。キリの良いところでなんとか離れ離れになり、布団をかぶって隠れザルになる。も、すぐに起きてしまう。まあ2、3時間はあれから寝たろうに。夜が開けるとまったくの晴レと思ったが、曇り空だった。あれ?違うと思ったが、そのうち晴れるだろうと思うことにする。
マルが生きていた時は家族全員で一晩家を空けることはできなかった。マルのおかげで今日、温泉宿に家族全員で泊まることができる。嬉し。すべてはマルのおかげなのだ。峩々温泉まで車で小一時間。宿のチェックインは午後3時。それまで家でのんびりと過ごす。今日は工房で仕事はしたくなかったので、手持ち無沙汰になるが、そこをじっと我慢するのではなく、そっと、ビンタをひと平ふた平喰らう感じで過ごす。ややあって、狼煙が上がり、俄然慌ただしくなる。それから、高知から大量の和紙が届き、製版所から次の印刷する凸版が届き、俄然やる気が出そうだが、その散歩手前あたりで、またそっと、ビンタをひと平ふた平喰らう感じで過ごす。午後、先日、宮城県立美術館の企画展のチケットを送っていただいた方に御礼の品々を送る。「あめのちかいせい」6冊(奇跡的に全部の号を揃えることができた。)、詩誌回生45号から50号、それに詩誌 回生55号(いろは表記せず)。午後2時に出立。途中、コンビニで飲料を買う。午後3時、予定通りに到着。宿では、ずっとこのところ読んでいた宮城谷昌光『公孫陵』(青龍編)を読み続ける。
あとは諸々。
本当は、喫茶ホルンのショップカードを印刷しようと試みた。しかし、お店の営業時間が変わり、その修正のためのかつじがどうしても揃わないので、諦めた。
