uta 『ほんのうた詩集 2』

 utaさんの第2詩集『ほんのうた詩集 2』の感想を書く前に、前置きを書きます。

 2週間ほど前から、ある方の詩の感想を書いています。その方は、自分がこれまで作った詩を順次公表し、一つひとつの作品についてその都度わたしが感想を伝えるという作業です。最終的には数十の作品から詩集に入れる作品を選ぶということになります。これまで8作品についての感想を伝えました。こんなことをしていると、面と向かって正面からこの詩は良いか悪いか評価しているような感覚になってしまうのですが、わたしとしてはそういうことよりも、その方の詩をしっかりと感じ取るのための下準備のつもりで、自分の中の思考を展開しているのです。だから、あえて外に出すことではないと思っています。しかも、当の作者本人に辛辣なことをも含めたわたしの思考を伝えるのは、正直やりたくなかったのです。

 ちょっと前置きが長くなりました。感想の中で、わたしは盛んに〈詩の力〉という言葉を使っています。「この詩は〈詩の力〉を感じる。この詩は言葉に力があるけれど、それは〈詩の力〉ではない。」などと使っています。では、〈詩の力〉とはいったいなになのか。それは、自分でもきちんと説明ができないのですが、言葉の意味ではなく、言葉の力強さでもなく、言葉の優しさでもない。言葉からもっとも遠く離れたものと言ったらいいでしょうか。とにかく、さっと異次元に連れ去られてしまう力、そんなような力と、あえて言葉にしてみれば思っています。

前置きが長くなりました。

 utaさんの『ほんのうた詩集 2』を読んでいて、前置きに書いたようなこと、つまり「詩とは何か」を考えていました。

 この詩集は、3つの異なる表現から構成されています。そして、それぞれの表現が別々にあるのではなく、重なり合って一つの詩となっています。3つとは、詩と日記と写真です。それぞれが独立して存在し、互いを引き立たせているのではなく、それぞれがutaさんの世界の断片となって、合わさり、ひとつの世界を構成している、そんな印象を持ちます。詩では語り尽くせない想いを写真と日記で昇華させている。そこでやっと「詩」があるべきところに落ち着く、そんな印象です。

 詩の言葉は、どこか七五調です。「どこか」と書いたのは、七五調ではないのに言葉がリズミカルと感じるからです。それも、カタカナで書くリズミカルということよりも、ひらがなの童謡のような優しいおおらかな波を感じます。

 例えば、

 

 

   つむじ風にはぐれる

   枯葉を追いかけるまなざしと

   もしくは

   壁を伝い上がる

   蝶の羽に伸ばす腕

   そして

   金木犀の香りを囲い込む

  

   夏の残響が未だ残る昼日中に

   暗中模索の影踏みごっこ

               詩「つむじ風」冒頭の2連

 

 

 

 

   言葉を持たない海の優しさを思っていると

   今朝、偶然目にしたエッセイのひとことが

   心の奥で小さく灯る

   この季節が

   こんなにやさしく見せてくれるのだろうか

                詩「海」の第1連

 

 

 

 

 

   見上げた山の沈黙が夕空に滲み出す

   木の葉の吐息は喪失を告げるようで

   何も言わない

               詩「秋月の町から」の第1連

 

 

 

 

 詩「つむじ風」で言えば、2連目の言葉の、歌うようなつながりです。詩「海」で言えば、「心の奥で小さく灯る」という七五調の言葉です。詩「秋月の町から」で言えば、3行の言葉の互いの響き合いがそう思わせます。わたしの先入観、思い過ごし、こじつけなのかもしれませんが、ところどころにふと現れるような気がします。そして、この詩集全体の言葉に感じるわたしの印象です。

 そうかと思うと、突然思索的な言葉が現れます。先ほど引用した詩で言えば、詩「つむじ風」の最初の行に出てくる「はぐれる」という言葉、詩「秋月の町から」の「木の葉の吐息は喪失を告げるようで」という言葉です。他の詩でも、そういった作者の思いがこもったと感じさせる言葉が出てきます。その言葉は最初に書いたリズミカルな言葉に対峙しているようにわたしには感じられるのです。それはどういうことでしょうか。

 この詩集の冒頭に紹介文のようなあいさつの文章があります。白い綺麗な淡い花びらの写真を背景にして、その花を包むような葉陰の薄い緑色の部分に白抜きでその文章はあります。

 最初のページには、

 「日記のように、詩を書きたい。」と一行だけ書かれています。

 そして次のページには、

 「詩を読んだり、書いたりしていると/無意識を意識し始めます。/それは、世界の触れられない場所に近づいてゆくようです。/ /この世界に静かに呼応する言葉は、/小さな日々の優しい余韻のようでもあり、/確かに残る足跡のようです。」

 と。

 「日記のように」とは、何も考えずに素直な気持ちでそのときどきのことを書き記したいということでしょうか。そして、そのように詩も書きたいということなのかもしれません。背伸びしないで素直な気持ちで自分自身のことや自分の周りで起きたことなどを・・・。しかし、詩は、〈無意識を意識し、世界の触れられない場所に近づく〉もののようで、日記のようにすらすらと書けない、そんなことなのでしょうか。「世界の触れられない場所に近づいてゆく」とは、「この世界に静かに呼応する」ことなのかもしれません。それは、「小さな日々の優しい余韻のようにでもあり、」、「確かな足跡のようです。」と確信を持って語ります。

 〈詩の力〉を実感し、信じている人にしかかけない言葉です。

 この世界に静かに呼応する言葉を作者は探し求めているのだと思いました。こじつけですが、余韻とは日記なのかもしれないし、足跡はは写真なのかもしれません。そこには確かなもの、自分にしかわからないけれど、確かにあるなにものかが存在していると作者は確信しています。

 この文章の前半で書いた「思索的な言葉とリズミカルな言葉が対峙しているように感じる」とは、詩の中にシコリのようなものがあるとわたしが感じるからです。そのシコリは、とても大切なもののように感じられます。例えば、「無意識の意識」と関わるのかもしれません。そして、そのシコリを感じるとわたしは少し息苦しくなります。それから視線を写真に移すと、そのシコリが綺麗に昇華され、なにものかに変わって消えるのです。どうしてなのか自分でもよくわかりません。写真がとても美しいということもあるかもしれません。また、もう一つの表現である日記の文章を読むと、平常心に戻れます。この3っつの表現の密接な関係がとても心地よく感じます。それを〈詩の力〉と表現してもいいのかもしれません。

 最後に、このutaさんの詩集『ほんのうた詩集 2』はオンラインストアで購入可能です。URLは https://honnouta.stores.jp です。