やまうちあつし『このごにおよんで透き通る』

 『あめのちあきせい』でお世話になっているやまうちあつしさんの最新詩集です。『あめのちかいせい』もそうなんですが、奥付けがありません。説明がありません。詩集という言葉はどこにも見当たりません。発行は、2026年7月ごろなのでしょうか(わたしのところに贈られてきたのがその頃です。)。詩とは関係ない言葉は本の題名と作者の名前がわかるだけの詩集です。装幀も文字の墨色一色。図版はありません。脱色された印象を持つ姿です。表紙は詩集の書名「このごにおよんで透き通る」を三行に分け、太い四角の線で囲っただけのもの。かろうじて目次があります。

 やまうちさんの詩集に書かれている言葉に出会うと決まって複雑な感情が生まれます。それは、どうやってこの言葉を理解したらよいのかわからないというもどかしさだったり、これは手品なんだろうかと疑ってしまう、騙されているような感覚だったり、わたしのこれまでの経験では太刀打ちできない、理解というものを超えたなにものかがきっとそこにはあるのだろうという嫉妬のような気持ちだったりします。

 そもそもやまうちさんの詩に「理解」という言葉は似合わないと思っています。そうはわかってはいるのに、つい「理解」という言葉を使いたくなる。それはどうしてかと考えてみると、わたしが抱いている詩というものとは別のものであるような気がするからです。では、わたしが抱いている詩とは何か・・・。それは、あえて言葉にしてみると、「触れることのできないわたし自身が生きているということの証明につながる魂の波動を一瞬で感じさせる言葉」となします。そのように書いたとした場合、やまうちさんの詩の言葉は、わたしの中では、その欄外に存在します。

 それは、例えば、「宇宙を漂っている言葉」といったイメージになります。しかし、ここに書いた「宇宙」とは、わたしが本やテレビや新聞などで知り得た知識によるいわゆる宇宙ではなく、わたしが全く知らない世界としての「宇宙」という言葉です。漂流物としての言葉は物質のように硬いです。見ただけでそれが何かはわかる。しかし、それがどうしてそこを漂っているのか、それを知る手掛かりは一切ない。それは「宇宙」がどうしてそこにあるのかわからないから仕方がないことです。それ以上のことは諦めるしかない。それは、いわゆるわたしが知っている宇宙とは、そもそも違うからです。それは、そこに漂っている言葉を、ただそこに漂っているということにすることがいかに難しいかということなのかもしれません。例えば、「そこにリンゴがある」と言った場合、そこにあるリンゴは、いわゆるわたしが知っているりんごではなく、「そこ」「に」「ある」「リンゴ」なのです。それがただ単に組み合わさってあたかもこの世界の言葉のように振る舞っている、そんな印象です。

 

 

   調子はどうだ

   怖くはないか

 

   何処まで行くの

   何時に帰るの

 

   心配しないで

   永遠なんて

 

   髪型変えても

   歯並びを変えても

   心の形は変わらないんだよ

 

               詩「唯言」最初の4連

 

 

 

 いかにも日常のさりげない言葉のやり取りのように思える詩の言葉です。このやり取りがこの後もずっと続くのですが、あたかもなにかをこの詩の中で表現しているかのように思えるのですが、実はただ単にこの詩に書かれている言葉は、ここに書かれている言葉は、わたしの知らない宇宙を漂っているだけの言葉(=漂流物)なのではないだろうかと思います。

 この詩集は、そういう言葉(=漂流物)から成り立っているとわたしは思いました。そんな宇宙でクルクルと、時に回転したり、ヒュッと飛び出したりする舞い踊る姿を見ていると、読んでいると、わたしと関係のないことなので、気楽でもあります。そしてとても楽しいと感じる。

 人は物事に意味を見出す存在であると、そんなようなことをフランクルはロゴセラピーの理論の中で語っていますが、そもそも言葉は意味だらけだし、意味が溢れ、氾濫しまくりです。意味を見出さないことは至難の業です。それを逆手にとって、意味のない言葉を生み出そうとする試みが幾度も繰り返され、今も続いています。言葉から発せられる意味を光と仮定してみた場合、光を発しない言葉は存在するのだろうか。言葉である限り、微細な輝きだろうが、人間は光を感じることだろうと思うのです。光を感じない言葉があるとしたら、それはその人だけの言葉だろうなと思います。そんな詩集です。